ひとりひとりの2020に出会う。

2020年という、日本にとって特別な1年に向けて
スポーツを通じた絆を、
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誰もが参加できる社会貢献のあり方を、
さまざまな視点で切り取り、伝えていく。
ここでの出会いと発見を、
ひとりひとりが日本の未来を考えるきっかけに。
それが、“みんなの2020”です。

東京2020オリンピック・パラリンピック開催まで

2021.07.01

豊島英(車いすバスケットボール)「道のはじまりに立つ」

2018年10月 ジャカルタ・アジアパラ大会 車いすバスケットボール 男子 決勝より

人生には、さまざまな転機がある。立ち止まって、さて、どちらへ行くべきかを考える。そうして一歩足を踏み出した先に道ができる。振り返れば、たくさんの枝分かれした別の行先が見えるが、今の自分は、選び取ってきた道の上に立っている。

車いすバスケットボール男子日本代表チームの主将を務める豊島英にとって、中学2年で出会った車いすバスケは、いくつもの人生の岐路で道を選ぶ際の判断基準になっている。

車いすバスケを続けるために。車いすバスケを知ってもらうために。車いすバスケを通じて、社会が変わるきっかけを作るために。
豊島は、今、ここに立っている。

豊島から見える道のりは、この先の地平は、どんな像を結んでいるのか。
「東京パラリンピックは、自分にとって最終目標を達成する場所」
と語る、豊島の立ち位置を、どうしても確かめたい。そんな思いで、取材をスタートさせた。

■宮城MAXへの移籍が第1の転機

2019年5月 車いすバスケ日本選手権 決勝より

豊島英は、1989年に福島県で生まれた。生後4か月の時に髄膜炎を発症し両脚の機能を失う。小・中学校は、車いすで通学できる養護学校(特別支援学校)へ。中学2年の時、車いすバスケに出会い、地元の<TEAM EARTH>というクラブでプレーを始めた。

「それ以前から体育の授業で車いすバスケをプレーすることはありました。講習会で大人の選手がプレーをしているのを間近で見た時に、そのカッコよさにひかれたということもありましたが、自分でもこれならきっとできるというイメージが湧いたんです」

車いすバスケとの出会いが、現在に続く道のはじまりだった。
「僕にとって、人生の転機は2つあります。一つは、2009年に宮城MAXに移籍したこと。もう一つは、2015年の春にWOWOWに転職したことです」

宮城MAXは、宮城県仙台市に拠点を置くクラブチームで、2008年に日本選手権(現・天皇杯)で初優勝してから2019年まで、前人未到の11連覇を達成している(2011年は東日本大震災のため、2020年は新型コロナウイルスのため大会は中止、2021年大会は2022年1月に延期)。日本選手権でMVP5回、得点王は12回も受賞した藤本怜央をはじめ、多くの日本代表選手を輩出。豊島は、現在、チームの副キャプテンを務める。

高校卒業後、豊島は地元・福島にある東京電力に就職した。当時、大学に進学して車いすバスケを継続させたいと望んでいたが、「バスケを続けたいなら、就職してほしい」という家族の希望に沿って、就職を選んだ。

攻防からこぼれたボールをいち早く拾うと、一目散にゴールに突進してレイアップシュートを決める。思わず「お見事!」と喝采を送りたくなるプレーで、見ている人を魅了する。それは、豊島が車いすバスケを始めた頃からの強みであり、現在も磨き続けている武器の一つである。

東北選抜の大会や練習会で顔を合わせる宮城MAXのメンバーは、豊島のプレーを見て、声をかけた。「一緒に練習しないか」と。

宮城MAXの特徴は、現在の日本代表にも通じるトランジションバスケ。ディフェンスからオフェンスへ。切り替えの早さを生かして、シュートを狙う。選手たちは、とにかく走りまくる。走りまくって、決めまくる。そのスタイルが、豊島を引きつけた。

「その頃、日本代表のメンバーに選ばれたいという目標が明確にありました。だから、福島から毎週末、車で2時間以上かけて仙台にある宮城MAXの練習体育館に通うようになったんです。往復、運転している時間の方が、練習している時間よりもずっと長い。でも、そんなこと、ちっとも苦になりませんでした」

移籍した豊島が、ひたと見つめていたのは、2012年ロンドンパラリンピックへの出場だった。

■東京電力社員が背中を押してくれた

2011年3月11日。東日本大震災発生。福島第一原発に勤務していた豊島は、水素爆発に対応する社員たちの奮闘に後ろ髪を引かれながらも、発生4日目に敷地外へ避難した。双葉町の寮には戻れず、そのままいわき市の実家を目指した。その後、茨城県への異動が決まった。

震災で宮城MAXが練習していた体育館の1つは損壊し、1つは被災者の避難場所に。ようやく山形県の体育館を探し当てて、練習に使わせてもらうようになる。茨城で勤務している豊島にとって、宮城MAXの練習に参加することは困難を極めた。

「震災直後、練習もできない、仙台に通うこともままならない状況の中で、正直、車いすバスケを続けられるのか、続けていいのか、すごく悩みました」

仕事を続けながら、車いすバスケにも通う。それが、できない。このまま車いすバスケを諦めなくてはいけないのか。
「想像したくないけれども、そうせざるを得ないのかもしれない、という不安が常にありました」

考え抜いて出した答えは、宮城MAXがある仙台市への転居。
「仙台に行って、車いすバスケを続けたい。そう東京電力の社員仲間に打ち明けると、"車いすバスケを続けて、自分の夢を叶えろ"と、背中を押してくれました」

仲間の言葉に支えられ宮城に軸足を移したのは、翌年の春だった。

2012年夏、豊島は、ロンドン大会で初めてパラリンピック出場を果たす。

「日本代表メンバーに残ることさえ、難しい状況でした。出番があまりなく、日本の成績が振るわなくて悔しい気持ちはあったけれども、それでも全試合が終わった瞬間、涙が止まらなかった」

パラリンピックという舞台に立てた、喜び、感謝。その思いが涙となって、豊島の内側からあふれ出したのだった。

■子どもたちの笑顔が新たな道に

2013年、東京オリンピック・パラリンピック開催が決定。パラリンピックの注目度は一気に上がり、アスリート雇用のチャンスが急増した。当時、豊島は宮城県警の職員としてフルタイムで就業していた。

「当然ですが、仕事をしていれば、平日の夜に練習するのが精いっぱい。自分をもっと高めるためには、練習量の不足を痛感していました。アスリート雇用で就職できるなら、練習時間が確保できるのではないか」

そう考え、いくつかの企業にアプローチする。その中の一つとして、2015年、現在所属するWOWOWに、パラアスリート社員第1号として転職した。

日常的な練習から代表合宿、遠征まで、思い悩むことなく競技に専念できる。豊島は2016年から2シーズン、ドイツ・ケルンの99ersでプレーしているが、もちろんその滞在も、会社は全面的にサポートしてくれた。

「競技生活の基盤が整ったということもありますが、この転職によって、大きく変わったのが、講演会や車いすバスケの体験イベントなどに参加する機会が非常に増えたことでした」

自分で切り拓いた転機とは別に、東日本大震災は豊島にとって人生を左右する大きな事態だった。「ゼロどころか、ものすごくマイナスからのスタートでしたから」
震災後、しばらく豊島は東京電力の社員であることを口に出せず、1人抱え込んでいた時期があったという。

「僕自身被災者ですが、津波で家族を失ったということではない。僕の被災を、被災というのか」
自分が置かれていた立場に対する戸惑いと葛藤で、口をつぐんでいたのだ。

アスリート雇用としての転職後、被災三県での体験イベントに足を運ぶことも多くなった。
「イベントには、さまざまな形で被災している子ども、大人もいっぱい集まっていました。その人たちが、車いすバスケというスポーツを、純粋に楽しんでくれる。それが何より嬉しかった」

1人の被災者として、自分の経験も踏まえて、子どもたちに語りかける。
「大変な状況の中で、僕も大好きなバスケットボールを諦めずに、続けるための道を模索してきた、ということを正直に話します。みんなも、自分の大切なこと、好きなことを持ち続けてほしい、それを続けるためにどう工夫していくか、一緒に考えてほしい」

訥々(とつとつ)と語る豊島の言葉によって、イベントに集う人たちの間に、温かな共感が生じた。

「同時に、イベントに集まる子どもたちのほとんどは、日頃、障害者と触れ合う機会がありません。僕という障害者と接した経験は、きっと大人になった時の心の豊かさにつながっていくと、信じているんです」

イベントで出会う子どもたちの笑顔によって、豊島は解放された。
小さな町で実施される車いすのイベントが人の心を動かし、やがて社会を変えていく力になる。豊島の思いが、新たな道を作り始めたのだった。

■日本を変えるために、結果を残す

2019年8月 『車椅子バスケ ワールドチャレンジカップ』より

2016年のリオパラリンピック以降、豊島は日本代表の主将となった。「メンバーの誰もがリーダーシップを発揮できるチームの一員として、その調整役を務めたい」と、常々語る。心がけているのは、日本代表としての意識改革だ。

「例えば、国際大会では、試合前に国歌斉唱があります。しっかり全員で歌おうよって、チームに提言しました。以前よりコートの中で声が出ていることを感じてくれたら、うれしいですね」

初出場だったロンドン大会、4年後のリオ、そして2018年の世界選手権。いずれも日本は9位。パラリンピックでの最高位は、2008年北京大会の7位。世界のレベルはますます上がり、ハイポインター(選手の持ち点が4.5点、4.0点)だけが得点を決めるのではなく、ミドルポインターがゲームを操り、ローポインターが3ポイントシュートを決める場面も増えた。日本の武器であるスピードを生かしたトランジションバスケに求められる精度も、否応なく高まっている。

「日本は1点、2点を争うギリギリの接戦で勝ちきれていない。僕自身、そういう場面でのタイムコントロールや、他の選手を生かすプレーを、より強く意識するようになりました」

コロナ禍で1年延期となった、東京オリンピック・パラリンピック。緊急事態宣言下で体育館が使えない時期もあった。10年前の震災直後の状況と重なる。10年前と異なるのは、それが世界共通である、という点だ。海外チームとは、2019年、タイで開催されたアジアオセアニア選手権以来、対戦していない。

「アメリカ、イギリスなどのほか、オーストラリアやイランの動画を見ることもありますが、それ以上に、日本チームの動画から動きのよかった部分や反省点を確認しています。仲間を信頼してパスを出せるよう準備をしておきたい」

豊島にとっては、3度目のパラリンピック。日本男子チームは初の『メダル獲得』を目指す。
「東京大会の、その先は考えていません。自分の最終的な目標を達成する場にしたい」

たびたびの危機に直面した時、道を選ぶ基準として、いつも車いすバスケが軸にあった。
「車いすバスケというスポーツによって、障害者のイメージを変えたい、日本を変えたいと思っています。それこそが、自分の最終的な目標です。東京パラリンピックは、その好機。一気に変わらなくても、その先10年、20年かけて日本の社会が少しずつ変わっていってほしい。そのためにも、まずはメダル獲得という結果を出さなくてはいけない。単に"いい試合をしたね"では、到達できないんです」

東京パラリンピックを経てどのような軌跡を残すのか。豊島は、その先に続く道のはじまりに、凛として立っている。

(文・スポーツライター宮崎恵理)

この記事は、2021年5月31日、NHK 東京2020パラリンピックサイト内の「パラアスリートの流儀」に掲載されたものです。


NHK
NHK 東京2020オリンピック・パラリンピックサイト

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