ひとりひとりの2020に出会う。

2020年という、日本にとって特別な1年に向けて
スポーツを通じた絆を、
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世界に誇る日本の文化や芸術を、
誰もが参加できる社会貢献のあり方を、
さまざまな視点で切り取り、伝えていく。
ここでの出会いと発見を、
ひとりひとりが日本の未来を考えるきっかけに。
それが、“みんなの2020”です。

東京2020オリンピック・パラリンピック開催まで

2020.02.04

平昌メダリスト・村岡桃佳が挑む東京2020

2018年の平昌冬季パラリンピック。村岡桃佳選手はアルペンスキー(座位クラス)に出場し、全5種目メダル獲得の偉業を成し遂げた。2019年にはワールドカップで年間総合王者に。しかし世界の頂を極めた裏で、極度の重圧に「スキーが辛かった」とも話す。直後、2020年東京パラリンピックに照準を合わせ、陸上競技への挑戦を発表。2ヶ月後には100mで日本記録もマークした。彼女を陸上に向かわせた思いとはなんだったのか。2つの季節の間に立つ村岡選手の思いを聞いた。

©Takao Ochi

2ヶ月で日本記録に到達

村岡選手はこの冬、雪上には出ない。その代わり、乾いた地面を黙々と走り続けている。

拠点である埼玉県の陸上競技場に着くと、ピンクとブラックが程よくミックスされた愛用のレーサー(競技用車いす)に乗り換えた。色の理由を聞くと「『桃佳はピンクでしょ』と家族会議で決められました」と苦笑する。ストレッチをすると、ゆっくりとトラックを周り始めた。

「スキーは、ただ滑っているだけで楽しかった。でも陸上は、ただ走っているだけで楽しい、とはならないんです。つらい練習が終わった時の達成感と開放感が好きです。記録がついてくると余計に楽しいし、嬉しいですよね」

東京2020パラリンピックをターゲットに、陸上への挑戦を発表したのは2019年5月。前年の平昌パラリンピック・アルペンスキーのメダリストによるチャレンジは話題にのぼった。

世界記録保持者・佐藤友祈選手らが所属する岡山県の車いす陸上チーム『WORLD-AC』を訪ね、選手兼監督を務める松永仁志さんにコーチングを依頼。自宅のある埼玉県と岡山県の2拠点生活が始まった。

©Takao Ochi

陸上を再開した当初、村岡選手のフィジカルは、ランナーとしての強さを備えてはいなかった。例えば上半身の筋持久力の不足だ。また、ターン時の重心移動が重視されるアルペンスキーで鍛えられていたとはいえ、村岡選手の体幹は、陸上選手としては決して強くはなかったという。松永さんは、指導を始めた頃を振り返り、「身体もできていないし、素人のような走り方でした」と話す。

村岡選手が属するカテゴリーは「T54」という障がいが比較的軽いクラス。約1年のトレーニングでパラリンピック出場を目指すには、村岡選手の「吸収力」にかかっていた。

その点において、松永さんの心配は杞憂だった。

「非常に習得が早い。フォームに修正を加えていくのですが、素直にスーッと入っていくんです。彼女には時間がない。だから弱いところを補うよりも、良いところを伸ばしてやる。そんな思いで見ています」

松永さんのアドバイスが、ストレートに反映されていく。村岡選手の強みは、その精緻な身体感覚と素直さにあった。また、体重が軽くスタートの出足の速さを身上としている。パラリンピック出場を始め豊富な経験を持つ松永さんの指導を受けながら走り込みを続け、短期間で着実に走力を向上させていった。

陸上挑戦から2ヶ月後、7月の関東パラ陸上競技大会100mで17秒38の日本新記録をマーク。自身も「想定外で、驚きました」と振り返る。

「環境と気持ちが整って出たタイムだと思っていましたが、『スポーツに"たまたま"はないんだよ』と周りから言われて、そう思うようにしています。始めた頃に比べると、基礎体力はついてきたのかな、と。最初は『まだ走るの?』と思っていたけど、もう慣れました。これが今の私の"日常"です」

©Takao Ochi

冬季の快進撃。舞台裏の苦闘

陸上への挑戦を決断するほんの1、2ヶ月前まで、村岡選手は雪上で戦っていた。

"ポスト平昌パラリンピック"となる2018〜19シーズン、パラアルペンスキーのワールドカップを戦い抜き、初めて年間総合王者のタイトルを獲得。パラリンピックの同種目全競技で、金メダル1つ、銀メダル2つ、銅メダル2つを獲得していた村岡選手は、名実ともに世界の頂点に君臨するスキーヤーとなった。

ただ、その裏で彼女はもがいていた。心と身体の歯車が噛み合わなくなっていたのだ。

「スキーがもっと速くなりたい、強くなりたい。自分にはできるはずだ、と思っていたのに、実際にどうしたらいいのかがわからなくなっていたんです」

そんな中でも、ワールドカップの転戦は進んでいく。パラリンピックの王者として、総合優勝のタイトル獲得は至上命題。自他両方のプレッシャーを受ける中で、タイトルの行方は最後までわからなかった。

残り4レースを残して、総合順位はライバルのアンナ・レナ・フォスター(ドイツ)と僅差。村岡選手は毎晩、暗記するほど戦績を計算してはレースをシミュレートしていた。「追い込まれて、気が滅入っていた」といい、極度の重圧から、宿舎の部屋で泣いてしまうこともあったという。平昌では嬉しさから流した涙は、1年後に不安の涙になった。

「それほどつらいシーズンだったんです。でも幸運にも(W杯の)タイトルを獲ることができた。その頃からです。陸上をもう一回やろうかと考え始めたのは」

©Takao Ochi

海外ではトレーニングの一環で他競技に取り組む選手も多い。かねてから陸上に対する意欲を抱いていた村岡選手にとって、冬季パラリンピックも世界選手権もない2019年から2020年の2年間は「今しかない」という時期でもあった。

自らの心も、転機を求めていた。

「スキーをしていることが、正直ちょっと辛くなってしまっていたんです」

周囲に相談すると、背中を押す人だけではなかった。「陸上をやる時間があるなら、アルペンの苦手種目を練習したほうがいいのでは」。そんな声もあった。

2022年の北京パラリンピックでもう一度金メダルを獲るならば、スキーを中断するべきではない。自分が陸上をやっている間、他の選手はもっと強く、速くなっているかもしれない――。逡巡した。それでも、陸上をやってみたいという思いに抗うことはできなかったという。

環境を変えることで、自らの殻を破る。村岡選手にとって、陸上への挑戦という選択は、アスリートとして前に進むことでもあった。

©Takao Ochi

2020年経由、北京へ

再び陸上に臨むからには、「趣味」で終わらせるつもりなどなかった。だから、第一線で活躍する松永さんに師事した。本気でやりたいからこそ、目標も「東京パラリンピック」に置いた。2019年4月、村岡選手が松永さんを訪ねて、初めて岡山に来た時のことだ。母と共に来訪した"冬の王者"に対して、松永さんはこう投げかけた後、一度席を外したという。

「正直、苦しくて厳しい世界です。わずか1年ちょっとで東京を狙うというのは、本当に儚いもの。そのつもりで来たのでしょうが、今一度考えてみて」

席に戻っても、村岡選手の決意は固かった。

「じゃあ、やりましょうか、と。まだ若くて未熟な感じもしたけど、思いは強い。冬季であれだけの実績があるにも関わらず、また底辺からトップを目指すのかと。摩擦もあると思う。『陸上をなめるな』とか『できるわけがない』とか。でもやりたい。その思いに答えたということです」(松永さん)

とはいえ、環境の変化と練習量に村岡選手は最初、戸惑った。自らを「内にこもった人間」と評する。それまでは、思い立っても一歩がなかなか踏み出せなかった。「車いすで生活していることが、それに拍車をかけていた」ともいう。初めて岡山のトレーニングに向かう前日、「自宅で、家族の前で号泣した」と笑う。一人で飛行機に乗ることも、見知らぬ土地で一人、過ごすことも初めてだった。その上で、トップレベルを志向する練習もこなさなくてはならない。彼女にとって陸上への挑戦は、一大決心でもあったというわけだ。松永さんは、村岡選手の緊張を解きほぐしながら待った。軌道に乗ってきたのは、2ヶ月ほど経った6月頃だったという。その結果、陸上が「日常」になり、7月の「日本新」に繋がっていったのだった。

©Takao Ochi

村岡選手は言う。

「冬季で結果を残したからといって、甘い気持ちで陸上にきたわけじゃなく、真剣勝負をしているつもりです。自分のプライドや意地、何より、中途半端では陸上、スキーそれぞれの選手に失礼だと思う。私、負けたくないんです。負けないためには、勝つしかない」

迎えた2020年。1月下旬にオーストラリアのキャンベラで行われた国際大会に出場した村岡選手は、100mで16秒34をマーク。自らの日本記録を約1秒更新してみせた。この記録は2016年のリオパラリンピック4位相当のタイムだ。2019年終了時点で、東京パラリンピック出場の当落線よりも下にいた村岡選手は今、「出場」のその先、決勝の舞台をも伺う位置まで浮上してきた。急激な上昇に、戸惑いや不安もあるという。けれど、自分の中の歯車が、少しずつ噛み合いつつあることも感じている。

「平昌(パラリンピック)と一緒ですね。メダルを獲得していく中で、『(もしかすると)金メダルを獲れるかも、獲りたい』と気持ちが上向いていった。その時の心境に似ています」

フィールドは違えども、世界の舞台で苦しい場面を乗り越えてきた村岡選手。その経験は、土俵際で大きな力を発揮するはずだ。

「東京に行けるにしろ、行けないにしろ、一区切りついた時に、自分がどんな気持ちになっているのか、興味があります。それは想像ができません。でも(陸上を)始めなかったら、そんな興味も起きなかったわけですよね」

東京パラリンピックイヤーが終われば、村岡選手はアルペンスキーに復帰する。その頃には、「2022年北京冬季パラリンピックでの戴冠」という新たなミッションが射程に入っていることだろう。
冬季の王者が過ごす、夏季のための日々。どんな結果になろうと、それは寄り道であろうはずがない。
村岡選手は今、新しい"日常"を全力で楽しみ、駆けている。

©Takao Ochi

※この記事は2020年1月29日にWEBメディア『SPORTRAIT』で公開された記事です。

取材・撮影:越智 貴雄  取材・文:吉田 直人


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