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東京2020オリンピック・パラリンピック開催まで

2017.12.20

"森保色"を濃密に感じさせたタイ遠征 2年半余りの東京五輪への旅が始まった

年上の3カ国と対戦し、結果は準優勝

"森保ジャパン"の船出はM−150カップ準優勝。東京五輪への旅が始まった【写真は共同】

東京五輪を目指し、U−20日本代表"森保ジャパン"がスタートを切った。2020年夏に「U−23」となるチームだ。12月6日の集合からタイへの出発、そして日本帰国の17日にいたるまでの10日余りの旅である。

現地では飲料メーカーが冠スポンサーとなっているM−150カップに参戦し、年上の3カ国と対戦。結果は準優勝だった。U−23タイ戦は1−2の黒星スタート、続くU−23北朝鮮戦には4−0で快勝。U−23ウズベキスタンとの決勝は2−2からPK戦で敗れるという内容だった。

チーム立ち上げの招集というのは特別な意味があるものだ。新しい監督がやって来て果たしてどんな選手が選ばれるのか、どういう戦術が採用されるのか、どういうフィロソフィーを持ち込むのか。記者やファンはもちろんのこと、当事者である選手たちも興味津々である。

この年代の代表チームを直前まで指揮していた内山篤氏は「"内山ジャパン"なんていらないし、そう呼んでほしくないからお願いもしてきたけれど、ここからは"森保ジャパン"でいいんだ」と言う。そもそも内山氏が自身の名前を代表チームに冠することを忌避していたのは「U−20までは育成年代だと思ってやってきた。そこで自分の色に染めようなんて思っていないし、思ってはいけない」ということ。

「このあとのA代表や五輪代表の監督に誰がなって、どんなサッカーをすることになっても『欲しい』と思われる選手になってほしいと思って活動してきた。でも、ここからは結果を求められる世界。"ハリルジャパン"でいいし、"森保ジャパン"でいい。監督が自分の色を出して、それに合わせて選手を選ぶという部分が強まっていくし、それでいいと思う」と語った。

招集初日から出ていた"森保色"

3バックシステムにチャレンジするなど、招集初日から"森保色"が(写真は12月10日のもの)【写真は共同】

実際、招集初日から"森保色"は出ていた。年代別日本代表では近年あまり採用されていなかった3バックシステムにチャレンジ。Jリーグではすっかりポピュラーになっている3−4−2−1のフォーメーションをベースにしつつ、GKを積極的にフィールドプレーヤーの練習に混ぜて、後方から丁寧にビルドアップしていくスタイルを徹底させていた。面白かったのは、選手たちが「広島っぽく」プレーすることを、指揮官から指示を受ける前に始めていたからだ。

サンフレッチェ広島時代、自分たちがボールを持つと、ボランチの選手が3バックの間に落ちてシステムを変化させるやり方を採用していた。すると、U−20日本代表の練習の中で、それを模倣したようなプレーが出てきて、森保一監督が制止する場面に出くわしたのだ。「『いや、そんなことをしろなんて言っていないから』と、止めました」と指揮官は笑った。

「僕が広島時代にしていたサッカーを事前に"予習"してきた選手もけっこういたみたいですね。でも、あのやり方はカズ(森崎和幸)という選手がいて、彼を生かすために採用していたものだから、彼のいないチームで同じことをやるつもりなんて全くなかったんです。だから慌てて止めました」

監督が森保色に染める以前に、選手たちのほうが森保色へ染まりにいっていたわけだ。

選手たちが見せたハングリー精神と向上心

3戦目でのフォーメーション変更はあえてのトライ。選手たちは「生き残りたい」という意欲を見せた【写真は共同】

この「タイ合宿」を通じて頻繁に選手から聞かれたフレーズは「生き残りたい」というものだった。無理もない話である。この遠征に選ばれたメンバーにU−20ワールドカップ(W杯)の正メンバーだった選手は1人もいない。その上、「Jクラブでレギュラーの選手も数名しかいない。ポテンシャルを見ないといけない選手たち」(森保監督)である。

全年代を通じて初めての代表という選手も複数いるチーム構成で、「ほぼ全員初対面」(FW上田綺世=法政大)というケースも珍しくはなかった。ここからはい上がろうと思えば、「いかに監督のやりたいことを理解するか」(MF神谷優太=湘南ベルマーレ)という部分に重きが置かれるのも自然なことである。結果として、こうした前のめりな空気感は、急造チームの雰囲気を自然とポジティブなものにしていた。

07年、いわゆる"調子乗り世代"のU−20日本代表コーチを務めたのを最後に、もっぱら「大人」のチームを指導してきた。それだけに未熟ながらスポンジのような吸収力を持った若者たちを久々に指導するのは、森保監督にも心躍るものがあったようだ。久々の感触について聞いてみると、満面の笑みを浮かべてこんな答えを返してくれた。

「みんなハングリー精神を持っていて、向上心があって、成功したいという野心を持っていて、少しでも何かを吸収したいという心があった。難しいことも要求したのですが、本当によく食らい付いてきてくれた。みんな『ちょっとでもいい選手になりたい』と思っているし、『ちょっとでも上にいきたい』と思っている選手たちでした」

要求した難しいことと言えば、多くの選手が「初めてやる形」と語っていた3−4−2−1のフォーメーションで2試合までトライしながら、決勝ではいきなり4−4−2のシステムに変えてきたことも挙げられるだろう。このシステムがあまり機能しないままに苦しいゲームになった一面もあったと思うが、それもまた森保監督には織り込み済みの部分だった。

「1戦目より2戦目の方がよくなっていたので、このまま3戦目も同じ形でいけばもっと、という考え方もあったと思う」と、指揮官は単に「決勝で勝つ」という視点からは必ずしも上策でなかったことを認める。だが、「今回のキャンプに参加した選手たちには柔軟性と対応力を持って戦えるところを見せてほしいと言ってきたし、自分たちのできることを増やしていこうと思っていた」と、あえてのトライだったことを明かした。

「これはスタートであって、ゴールではない」

森保監督はタイ遠征について、選手たちのポジティブな面がたくさん見られた成果の部分を強調【写真は共同】

そしてこれは、「テスト」でもあったのだろう。「あまり競争をあおるようなことは言っていない」と言う指揮官だが、選手たちの観察を怠っている様子はなかった。練習ではコーチングスタッフにメニューの指揮を任せることもあったが、少し戸惑いを見せる選手がいれば、「何か質問があるんじゃないか?」とスッと寄っていって言葉を引き出しているあたり、じっくり見ていたのは間違いない。

いきなり4−4−2のシステムでやるように言われた選手たちが見せる対応力を、今後に向けたひとつの判断材料にしていたわけだ。そしてどうやら、何人かの選手にとりあえずの合格通知が届くことになりそうだ。

チームはこれでいったん解散となるが、来年1月のAFC U−23選手権で再招集となる。ここにはU−20W杯メンバーも含まれる見込みだが、「ポテンシャル枠」とでも言うべきメンバーだった今回のM−150杯からも複数名が選出される見込み。当初は2、3名という話だったのだが、もう少し増えることになるかもしれない。

さらに来年3月のインターナショナルマッチウイークには南米遠征も予定されており、こちらにはAFC U−23選手権への招集が見送られそうなFW久保建英(FC東京)や天皇杯に勝ち残ったチームの選手はもちろん、MF堂安律(フローニンゲン)や伊藤達哉(ハンブルガーSV)ら欧州組もできれば招集したいところだろう(欧州組はこの冬、さらに増える可能性も高い)。

大会を終え、森保監督はPK戦の末にウズベキスタンに敗れて優勝を逃したことを惜しみつつ、「これはスタートであって、ゴールではない」とも強調。むしろ選手たちのポジティブな面がたくさん見られた成果の部分を強調した。"森保色"を濃密に感じさせるタイ遠征を最初のステップに、2年半余りにおよぶ「東京」への旅が始まった。


▼ライタープロフィール

川端暁彦
1979年8月7日生まれ。大分県中津市出身。フリーライターとして取材活動を始め、2004年10月に創刊したサッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の創刊事業に参画。創刊後は同紙の記者、編集者として活動し、2010年からは3年にわたって編集長を務めた。2013年8月からフリーランスとしての活動を再開。古巣の『エル・ゴラッソ』を始め、『スポーツナビ』『サッカーキング』『サッカー批評』『サッカーマガジンZONE』『月刊ローソンチケット』など各種媒体にライターとして寄稿するほか、フリーの編集者としての活動も行っている。2014年3月に『Jの新人』(東邦出版)を刊行


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