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2017.12.07

桐生祥秀、日本人初の9秒台を記録
その舞台裏にあったスパイク製作秘話

2017年9月9日、待ちに待った瞬間がついに訪れた。

日本学生対校選手権、陸上男子100メートル決勝。東洋大学の桐生祥秀がゴールラインを駆け抜けると、電光掲示板に「9.99」の文字が浮かび上がる。

スタンドは揺れた。正式タイムは「9秒98」。日本人選手として初めて、桐生祥秀が「100メートル9秒台」を記録した瞬間だった。

このレースをスタンドで見守った田崎公也氏(「崎」は正式には、右上が大でなく立)は、我を忘れて喜びを爆発させた。株式会社アシックスに勤務する彼は、桐生のスパイクを製作するチームのリーダーだ。夢の9秒台を打ち立てたスパイクには、どんな秘密が隠されているのか。舞台裏に隠されたドラマを、田崎氏に聞いた。

──まずは、桐生選手との関わりについて聞かせてください。

田崎 桐生選手が10秒21という高校新記録を出したのが、高校2年時の国体(国民体育大会)。付き合いとしてはその頃からになります。翌年4月の織田記念陸上で10秒01の日本歴代2位・ジュニア日本記録をマークしたのですが、実はその大会の2週間くらい前、2メートル以上の向かい風の中で10秒6台の記録を出しているんです。驚きましたね、印象としては、単純に「速い」のひとこと。特に、足の回転数がハンパじゃなかった。もちろん、前年から彼の存在は知っていましたが、実際にその走りを見て「普通の高校生じゃない。すごい選手だな」と思いました。

──アシックスがプロジェクトチームを結成したのも、その頃のことですか?

田崎 そうですね。具体的には彼が高校2年の時に初めて足形を計測した時から、ということになりますが、当社としては彼の将来性を考えてプロジェクトチームを立ち上げました。日本人として初めて10秒を切るという大きな目標もありましたから、当社の特注部門、研究部門、開発部門、プロモーション部門が一体となる"一大プロジェクト"と言っていいと思います。

もちろん、当時から使命感のようなものを感じていました。10秒を切るという大きな目標だけじゃなく、陸上界全体を盛り上げたい。日本とアジアのトップ、さらに世界を舞台に戦おうとする選手が目の前にいる以上、その思いに応えたいという気持ちは強かった。

──桐生選手のキャラクターについては、どのように感じていたのでしょう?

田崎 最初は高校の先生を通じてのコミュニケーションだったのですが、大学進学にあたり、いよいよ本格的なタッグが始まりました。当時は、会うたびに成長しているという印象でした。スパイクに対する意見や要望をはっきりと口にしてくれるし、妥協がない。"一緒に戦う"という感覚は、日を追って高まっていった気がします。

──となると、スパイク開発も順調に進んだのでは?

田崎 いえいえ、それはもう大変で(笑)。作業としては、「足の裏全体をフラットに使って走りたい」という彼の要望に対して、僕らなりの答えを見つけて形にする。それに対する桐生選手のリアクションに応じて作り直す。それを繰り返すのですが、とにかく「何か違う」の連続でした。「これでは走れません」とはっきり言われたこともあります。

──「足の裏全体をフラットに使う」とは?

田崎 短距離走用のスパイクは、つま先部分が反り返っているものが一般的です。それは、接地面積を減らしてトラックからの抵抗力を抑えるため。しかし、桐生選手の場合は逆の発想で、足の裏全体を接地させて蹴る力を増幅させる。従って、スパイクはつま先部分が反り返っていないものを着用しています。でも、どれだけ試作品を持っていっても、「何か違う」と。

──「何か」という感覚的な部分をくみ取って、形にしなければいけない。

田崎 はい。コーチと相談することもありましたし、担当スタッフの一人である小島茂之はオリンピアン(2000年シドニー五輪・男子400メートルリレーのファイナリスト)ですから、彼の意見も聞きながら。桐生選手が言う「何か」を探るため、質問し、想像し、解決策を見つけて試作品を作る。その繰り返しでした。

──結果的には、何が、どのように変化し、進化したのでしょう?

田崎 まずは軽さです。桐生選手が10秒01で走った際に履いていたスパイクは、当社モデルの中でも軽い部類のもので片足約140グラム。そこからピンの数や形、アッパーの構造や素材を変えて片足約120グラムまで落としました。それから、形。先ほど申し上げたとおり、桐生選手の走法に合うものとして、底面がフラットで、かつ彼にとって理想的な形状を追求しています。そして、もう一点はアッパーの素材と製法(作り方)。高校時代に履いていたものは人工皮革のパーツをミシンで縫い合わせたものだったのですが、現モデルは素材メーカーさんと開発したバネのような弾力性を持つ素材を使って、縫製箇所を極力減らすことで,足を入れたときのフィット性をより向上させています。これについては桐生選手もすごく気に入ってくれていて、ソックスを履かず、素足のままスパイクを着用しています。

──なかなか完成形に導けないもどかしさもあったのでは?

田崎 もちろんです。例えば、試作品を3つ持っていく。その3つは私たちにとっては完全に"同じもの"なのですが、桐生選手に履いてもらうと「Aはつま先部分が緩い。Bはここが当たる。Cはぴったり」と言う。手作りならではの誤差があるとはいえ、私たちにはその違いが分かりませんでした。それでも、最終的には"すべて同じもの"を作らなければなりません。3つの違いをなくす作業には、本当に多くの時間がかかりました。

──最終形が完成したのは?

田崎 今年2月。彼が履いて、ダッシュをして、「いいですね」という言葉をもらった時はホッとしました。以来、数十足作っていますが、「何か違う」というリアクションが返ってきたことは一度もありません。つまり、再現性を含めて、私たち作り手としてはようやく答えを見つけることができた。今となっては、ダメなものは製作過程で分かるレベルにまで達しています。

──しかしながら、桐生選手は今年6月の日本選手権で4位となり、100メートルでの世界陸上代表権を逃しました。

田崎 正直なところ、私自身も落ち込みましたし、彼のことを思うとあの日は会えませんでした。ただ、世界陸上の400メートルリレーでの走りを見て、本来の姿が戻ってきているなと。

──迎えた9月のインカレで、桐生選手は日本人選手として史上初の9秒台、9秒98という日本記録を出しました。

田崎 興奮しました。私自身も我を忘れて喜びました。「スタンドが揺れる」とはこういうことかと思いましたし、スタッフと抱き合い、何度もハイタッチしました。うれしかったですね。もうちょっとで泣くところでした(笑)。
桐生選手がスパイクを信頼してくれているからこそ、気持ちが乱れることなく、本来の力を発揮することができたのだと思います。記録を出せた要因については、もちろん彼の努力が大半を占めていることは間違いありません。でも、ほんの少しでも、わずか数パーセントでもこのスパイクが貢献していることは間違いないと思いますし、そういう気持ちを持っていなければ作れません。

──日本人初の9秒台は、このスパイクだから達成できたのでしょうか。

田崎 そう信じています。このスパイクの製作には何百もの人が関わっていて、その力を結集して作っている。本当の意味で、集大成ですから。実は、僕自身、学生時代に陸上競技をやっていたんですよ。でも、足の形が良くないことでスパイク選びには苦労しました。どんなスパイクを履いても、足が痛かった。だから、スパイクによって選手の成績が変わってしまうことも十分に理解していたつもりです。そういう経験があったからこそ、選手のパフォーマンスを最大限に引き出すスパイクを作る仕事をしたいと思い、希望して現職に就きました。今回の結果によって、好きなことを形にできる喜びの大きさを実感しています。

──桐生選手とアシックスの二人三脚は、これからも続きますね。

田崎 もちろん。これで終わりではなく、まだまだ戦っていかなければいけません。桐生選手はどんどん成長しているし、私たちはその成長速度に追いつき、その時点における最高の一足を作らなければなりません。彼が求めているのは"はだし感覚"。それを実現するために、常にアンテナを張り巡らせておかなければならないと思っています。これまでと同じように、落ち込むこともたくさんあると思うんです。何百回でもある。でも、めちゃくちゃ楽しいですよ。このスパイクだって、何百回という"ヘコみ"の先にたどり着いた答えですから。

(2017年11月 取材・文:細江克弥 撮影:吉田武)

<プロフィール>
田崎公也(たさき・きみや)
株式会社アシックス カスタム生産部カスタムメイドスペシャリスト。学生時代はやり投げ選手として陸上競技を経験。アシックスに入社後、2000年に自ら志願して特注シューズ製作チームに所属し、現在は多くのトップアスリートを担当するチームのリーダーとして活躍。


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