ひとりひとりの2020に出会う。

2020年という、日本にとって特別な1年に向けて
スポーツを通じた絆を、
競技を支える人たちのドラマを、
世界に誇る日本の文化や芸術を、
誰もが参加できる社会貢献のあり方を、
さまざまな視点で切り取り、伝えていく。
ここでの出会いと発見を、
ひとりひとりが日本の未来を考えるきっかけに。
それが、“みんなの2020”です。

東京2020オリンピック・パラリンピック開催まで

2018.03.09

「エース」と呼ばれ続けた男 ブラインドサッカー日本代表・黒田智成が語る2020

ブラインドサッカー日本代表は、2002年5月、韓国・ソウルで行われた韓国代表との親善試合で、歴史の1ページ目を記した。それから16年、選手もスタッフも入れ替わる中で日本代表であり続けたのは、黒田智成ただ1人だ。単に「代表の一員」であるだけではない。彼は、その16年もの間、日本の「エース」と呼ばれ続けた。

盲学校には、競技としてのサッカーが存在しなかった

「もっとうまくなりたい、もっと面白いプレーをしたいという気持ちで、16年間やってきました。いまも、それは変わらないつもりです。ただ、2月にユースのチームがラオス代表とすごく楽しそうに試合をするのを見て(※1)、自分はあの純粋さを忘れかけていたような気もしましたね。昔はサッカーができるだけで楽しかったけれど、いまは、うまく試合をしなきゃいけない、点を取らなきゃいけないという思いが強い。だからゴールを決めてもうれしいというよりホッとする感じなんです。トモ(黒田の愛称)は決めて当然、という雰囲気もありますから」

実は黒田は一度も本物のサッカーを見たことがない。生まれつき弱視で、7歳までに両目の摘出手術を受けたからだ。唯一、幼い頃にそのやり方を教えてくれたのは、テレビアニメの『キャプテン翼』だった。片目がわずかに見えていたときは、テレビ画面に顔をくっつけるようにして見たという。全盲になってからは、音声だけでプレーを想像した。

「もともとボール遊びが大好きでした。『翼』でサッカーを知ってからは、ひとりでボールを蹴って遊んでいましたね。壁を相手に、『10回連続で蹴り返せるまで晩ご飯は食べない』なんてルールを自分に課したりして。うちは熊本のミカン農家で、山の中にあるので、その斜面も遊び相手でした。上に向かって蹴るとボールが転がって戻ってくるので、便利なんですよ。目が見えないと、遠くに行ったボールを探すのが大変なんです」

しかし通っていた盲学校には、競技としてのサッカーが存在しなかった。部活はもちろん、体育の授業でもサッカーはやらない。鈴入りのサッカーボールを使って、弱視の生徒たちと一緒に遊びで楽しむ程度だった。

「先生は、ぶつかると危ないと思いながらも、僕たちが『やりたい、やりたい』とうるさいので、ゴール裏に音の出る機械を置くなどの工夫をしてやらせてくれました。全盲の子がボールを持ったら、みんなプレーを止めてシュートするまで待つ、というルールもありましたね。でもサッカーは遊びでしかできないので、中学、高校時代は陸上競技や柔道などで大会に出場していました」

大学時代も、黒田は体育の教員に直談判して、何度か晴眼者に交じってサッカーをプレーすることができた。仲間がコーナーキックを黒田の胸めがけて蹴り、それをワンバウンドでトラップしてからシュートしたときの気持ち良さは、いまでも忘れられないそうだ。

「ブラインドサッカーでは胸でトラップするようなパスは来ないので、あんなプレーができたのはそのときだけですね。シュートはキーパーに止められましたけど、思い切り振り抜いた足でジャストミートしたときは、オレってすごい!と思えました(笑)」

陸上からサッカーに転身するきっかけ

大学時代は、陸上競技の三段跳びと走り高跳びでパラリンピック出場を目指していた。とくに三段跳びは当時のパラリンピック参加標準A記録(11メートル)をクリアしており、スペインのバルセロナで開催されたIBSA(国際視覚障害者スポーツ連盟)主催の国際大会への出場を打診されたこともある。

©日本ブラインドサッカー協会

「日程が大学のテストと重なっていましたし、渡航費用などで何十万円もかかるので、そのときは辞退しました。いま思うと、もったいないことをした気もしますね。でも、あの大会に日本代表として出場していたら、ずっと陸上競技を続けていたかもしれません。大学院に進んでからも、国内大会には何度か出場しました。いまだに陸上関係者に会うと冗談で『おまえはサッカーに心を売った』なんて言われます(笑)。視覚障害者スポーツは全体の競技人口が少ないので、運動のできる選手はいつも奪い合いなんですよ」

陸上からサッカーに転身するきっかけとなったのは、2002年4月に横浜で開かれたブラインドサッカーの講習会だ。関西では、2001年9月に当時アジアで唯一ブラインドサッカーを導入していた韓国を視察した人々が中心となり、同年11月に最初の講習会が開かれていたが、関東ではそれが初めてだった。そこでブラインドサッカーの国際ルール(※2)を初めて知り、「ついに自分のやりたいサッカーに出会えた」と思った。

「盲学校での遊びのように動きに制限のあるルールだったら絶対にやらない、と思って参加したんです。でもこの国際ルールは、『ボイ』という声で衝突を避けるだけで、自由に走り回れるものでした。講習会では、まだ誰も教えていないうちから、僕がボールを両足で挟むようにしてドリブルをするのを見て、みんなビックリしてましたね。でも僕にとっては、それが当たり前のやり方でした。小さい頃から、とにかくボールを足元から離さずに運ぶのが一番のテーマだったんです。足から離れると、ボールを探すのに苦労するので」

「まずは当事者の意欲があって初めて広がっていく」

冒頭で述べた日本代表にとって最初の韓国戦が行われたのは、その講習会の翌月のことだ。いきなり海外に遠征すると聞いたときはやや戸惑った黒田だが、「試合をしてみたい」という思いから参加。親善試合はPK戦で敗れたものの、「すごく楽しかったので、国内でも続けられる環境を作りたいと思いました」と言う。

©日本ブラインドサッカー協会

「日本に帰ってから、みんなで協力し合ってクラブチームを作り、2003年には4チームによる第1回の日本選手権大会を開催しました。ただ、選手数はなかなか増えません。人が少ないと練習がしにくいので、『関東全体でひとつにまとまったほうがいい』という意見もありました。でも、それでは試合の機会が減ってしまう。かなり激しく議論しましたが、最終的には複数のチームに分かれることになりました。少人数でも各クラブが何とか活動を続けられたのは、それぞれのチームに『ブラインドサッカーをやりたい』という強い思いを持つ選手がいたからです。チームの運営には健常者の手助けが必要ですが、『この競技を障害者にやらせたい』と願う人たちの熱意だけでは長続きしません。まずは当事者の意欲があって初めて、周囲を巻き込んで広がっていく。これは決して忘れてはいけないことだと思います」

アルゼンチンで受けた衝撃

クラブチームが増えるにつれて代表チームの活動も本格化し、日本は2005年にベトナムで開催された第1回アジア選手権で優勝。翌2006年の世界選手権アルゼンチン大会の出場権を手にした。その世界選手権での経験が、黒田がプレースタイルを見直す最初の大きな転機になった。

©日本ブラインドサッカー協会

「練習や試合を重ねて、ブラインドサッカーのことがわかってきたつもりになっていましたし、アジアでも勝つことができたので、世界選手権もある程度は戦えるだろうと思ってアルゼンチンに行ったんですよ。ところがブラジルに0-7で大敗するなどして、8カ国中の7位という成績でした。強豪国のプレーに触れて、自分がまだ本物のブラインドサッカーを知らなかったことを痛感しましたね。とくに、ブラジルの選手たちがドリブルで曲線を描きながらもスピードを落とさず、ボールを離さないのが衝撃的でした。それまで日本の選手は、僕も含めてまっすぐドリブルで突き進んで、スピードで相手を抜くことしか考えていなかったんです」

もうひとつ、この大会で衝撃を受けたことがある。地元アルゼンチンがブラジルを下して優勝した決勝戦のスタンドの雰囲気だ。筆者もその場にいたが、仮設スタンドにはあふれんばかりの観衆が詰めかけ(実際、座席を確保できずにスタンドの裏側をよじ登って顔だけ出す者もいた)、殺気を感じるほどの異様なムードだった。

「当時、国内の試合ではお客さんがほとんどいなかったので、視覚障害者スポーツがあそこまで人々を熱狂させる力を持っていることに驚きました。あのアルゼンチン大会の興奮を上回る経験はいまだにありません」

アルゼンチンから戻った黒田は、「このままではいけない」と危機感を抱き、インターネットでサッカーやフットサルの技術を調べまくった。ドリブルでの抜き方やフェイントのテクニックなど、ブラインドサッカーで使えそうなものを探しては練習で試す。言葉の説明だけで動き方を理解するのは容易ではないはずだが、ジネディーヌ・ジダンが得意とした「ルーレット」を完璧にマスターしたのもこの頃だ。

「いま振り返ると、初めての世界選手権を経験してからの4年間が、自分のプレーが一番伸びた時期だと思います。とくに、ロンドンパラリンピック予選を控えた2011年は、国内リーグで全試合ハットトリックを決めたほど調子が良かった。2007年のアジア選手権は負けて北京パラリンピックを逃しましたが、2011年のロンドン予選は『この調子なら勝てる』と自信を持っていました」

パラリンピック出場を2度逃し、手に入れた新しい武器

ところが、アジア選手権(仙台大会)が2カ月後に迫った2011年10月に、黒田本人にとっても日本代表にとっても痛すぎるアクシデントが起きる。右膝の前十字靭帯損傷。医師には、1カ月間、ボールに触ることを禁じられた。

それでも黒田は、「負ければ終わり」の韓国戦で終了間際に逆転ゴールを決めるなどの活躍を見せる。しかし日本は翌日のイラン戦に負けて、またしてもパラリンピック出場を逃してしまった。

©日本ブラインドサッカー協会

「あの大会後に、代表チームのドクターから『これからも競技を続けるつもりなら手術しないとダメだ』と言われました。ロンドンパラにも出られないので、少し迷う部分はありましたね。でも、自分はまだうまくなれるんじゃないかと思えたので、手術を受けたんです。それから1年はリハビリ。そんなに長くサッカーができないのは初めてだったので、つらい時期でした」

リハビリから復活した黒田は、やがて新しい武器を手に入れた。左足のシュートだ。それまではもっぱら右足で蹴っていたが、手術後は恐怖感もあり、左足でボールを扱うことから練習を再開。やってみると、「意外とパワーあるじゃん」と気づいた。それ以降、彼は代表戦で重要なゴールをいくつも左足で決めている。

「アルゼンチンの世界選手権後に覚えた切り返しのいくつかは、膝に負担がかかるので、もうできなくなりました。でもその代わり、いまは左右両足でシュートできるので、プレー全体の幅は以前よりも広がりましたね」

開催国枠での初出場、2020へ向けて

2度の転機を経て、黒田のプレーは成長を続けた。しかしパラリンピック出場への道は険しい。2015年のアジア選手権もライバルのイランと中国に及ばず、リオ出場はかなわなかった。2020年の東京パラリンピックは開催国枠での初出場が決まっているが、できればアジアの壁を破るだけの実力をつけたいところだ。

だが昨年12月にマレーシアで開催されたアジア選手権で、日本は史上最低の5位という成績に終わってしまった。3年前には3-0で圧勝したタイにも勝つことができず、3大会連続で出場していた世界選手権の出場権も初めて逃している。黒田の動きも、やや精彩を欠いていたように見えた。

©日本ブラインドサッカー協会

「僕が決めるべきところを決められなかったので、あのような結果になってしまいました。実は、勝たなきゃいけない、点をたくさん取らなきゃいけない、というプレッシャーを感じてしまって、大会中はあまり眠れなかったんですよ。2015年までの日本は1-0で勝つことを目指す堅守速攻の戦い方でしたが、いまは失点のリスクを負いながら攻める戦術に変わりました。ルール変更でゴールサイズが広がったので(※3)、相手を0点に抑えるのは難しい。だから僕がたくさん点を取らなきゃいけないんですが、そのプレッシャーに負けているようじゃダメですよね。

チームとしては、それまでの強化試合などを通じて、ブラジルや欧州のチームなど組織的に攻撃してくる相手への対応は練習できていました。でも、アジアはひとりのエースが個人技で攻めてくるチームが多いんです。それへの対応ができていなかった。僕としても事前に不安は感じていたので、それをもっとチーム内で発言すべきでした」

3月21日から25日まで、日本代表は東京で開催される「IBSAブラインドサッカーワールドグランプリ2018」(※4)に出場する。グループリーグの対戦相手は、イングランドとトルコ。世界選手権に出場できないチームにとっては、2020へ向けた貴重な強化のチャンスだろう。

「去年のアジア選手権では、シュート・モーションに入ってから蹴るまでに時間がかかりすぎることが自分の課題だと感じました。もっと点を取るには、相手に体を寄せられる前にシュートを打たないとダメ。だからワールドグランプリでは、小さいモーションからトーキックでのシュートなどにチャレンジしたいです。」

「若いうちにスポーツと出会うことで人生の楽しみが広がる」パラリンピックは大きなチャンス

16年間、黒田は常に自ら課題を見つけながら成長を続けてきた。しかし、そんな彼も今年で40歳。盲学校の社会科教員という「本業」もある。体力が落ちる反面、仕事は忙しくなる年代だけに、サッカーとの両立は容易ではない。

「この生活を続けるのは体力的にも時間的にもキツいですね。ブラインドサッカーと同じく、仕事も自分の人生にとってすごく大事なものですから。いつまでも両立させるのは厳しいので、2020年の東京パラリンピックが代表選手としての集大成になるかもしれません。まあ、その後どうするかは、終わってみないとわかりませんけど(笑)。それに、盲学校の生徒たちにとっては、先生である僕がサッカーで世界一を目指していること自体が大きな教材。だから教員としても、やれるところまで頑張っていきたいという気持ちはあります。僕自身もそうだったように、視覚障害者は若いうちにスポーツと出会うことで人生の楽しみが広がると思うんですよ」

黒田によれば、一般の学校に通う視覚障害児の中には「自分にはスポーツができない」と思い込んでいる子も多いという。盲学校には専門の体育カリキュラムがあるが、健常児と一緒の学校にはその環境がなく、体育の授業を見学せざるを得ないこともある。当然、スポーツの部活に参加するのはもっと難しい。

「視覚障害児がスポーツをやれないのは、教員や親御さんなど周囲の大人に知識がないことも大きな原因だと思います。でも、身近なところでパラリンピックが開催されれば、いろんな障害者スポーツの存在やそのやり方など、情報がどんどん広がるでしょう。それによって、視覚障害児がスポーツをやれる環境も少しずつできていくのではないでしょうか。そういう意味で、パラリンピックは大きなチャンスだと思います」

もちろん黒田自身にとっても、東京パラリンピックは自分のプレーを世界の人々に見てもらう大きなチャンスだ。北京、ロンドン、リオと3回続けて逃してきた舞台に立てるのは「素直にうれしい」と言う。

「なにしろ一度もパラに出場したことがないので、まだどんな舞台なのか想像がつきませんが、日本の人々に世界との戦いを見てもらえるのはすごく楽しみです。アルゼンチンの世界選手権で味わった決勝戦の雰囲気に憧れてここまでやってきたので、あれをピッチで選手として感じられたら最高ですね」

※1 2018年2月11日に、ナショナルトレセン(おおむね23歳未満の若手年代が対象)とナショナルユーストレセン(小学校4年生から高校生までの視覚障害児が対象)がラオス代表を招いて強化試合を実施。

※2 フットサルのルールが基本だが、転がると音の出るボールを使用、両サイドラインに高さ約1メートルのサイドフェンスを設置、守備側がボールにアプローチするときに「ボイ」と発声するなどの特別ルールがある。詳しくは日本ブラインドサッカー協会の公式サイトに記載。

※3 従来はフットサルと同じゴールサイズ(高さ2m×幅3m)だったが、2017年のルール改正でホッケーと同じサイズ(高さ2.14m×幅3.66m)に拡大された。

※4 IBSA公認の新設国際大会。今年の第1回から2020年の第3回までは東京都内での開催となる。今回の出場国は、日本、トルコ、イングランド(以上グループA)、アルゼンチン、フランス、ロシア(以上グループB)。詳しくはIBSAブラインドサッカーワールドグランプリ2018の公式サイトに記載。

(2018年2月 取材・文:岡田仁志 撮影:花井智子)

<プロフィール>
黒田智成(くろだ・ともなり)
1978年熊本県生まれ。東京都立八王子盲学校教員。たまハッサーズに所属。
病気のため生後3カ月で片目を摘出、6歳の時にもう片目を摘出。2002年にブラインドサッカーを始めて以来、日本代表の中心選手として活躍を続ける。
2006年、2010年、2014年の世界選手権に出場。2006年~2008年の日本選手権で3回連続MVPを獲得。


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