ひとりひとりの2020に出会う。

2020年という、日本にとって特別な1年に向けて
スポーツを通じた絆を、
競技を支える人たちのドラマを、
世界に誇る日本の文化や芸術を、
誰もが参加できる社会貢献のあり方を、
さまざまな視点で切り取り、伝えていく。
ここでの出会いと発見を、
ひとりひとりが日本の未来を考えるきっかけに。
それが、“みんなの2020”です。

東京2020オリンピック・パラリンピック開催まで

2018.06.17

パラリンピック3大会出場。健常者と戦う、義足のアスリート・中西麻耶が描く夢

短距離と走り幅跳びでパラリンピックに3大会連続出場し、2017年のパラ陸上世界選手権走り幅跳び(T44)で銅メダルを獲得した片足義足のアスリート・中西麻耶。陸上を始めてわずか1年半でパラリンピックのファイナリストになり、その後は金メダルを取れる選手と期待されながら、昨年メダルを獲得するまでなかなか結果を出せずにいた。苦悩を抱えながらも、持ち前の負けん気と行動力でチャレンジを続け、現在はプロ陸上選手として東京を目指す。そんな彼女が成し遂げたいものとは――。

ソフトテニスで大分国体を目指した中西の原点

「小学生のときに大分に引っ越してきたんですが、自宅から一歩出たら山という環境で。山に登ったりとか、田舎ならではの遊びをしていました。もう手のつけようのない、おてんばな子どもで(笑)。とにかく体を動かすのが好き。卓球、水泳、バドミントン......いろいろやりました。そんななかでハマったのがソフトテニスです。ソフトテニスってダブルスがメインなのですが、自分たちの勝ちパターンに相手を巻き込むとすんなり勝てたりするんですよ。そういう頭脳戦が面白かった。それで、高校はスポーツ推薦で強豪に行きたいと思うようになりました。正直なところ、勉強漬けの兄の姿を見ていたので、私は勉強したくないなぁというのが大きかったんですけど」

晴れて進学した明豊高校時代にインターハイに出場。そんな中西が次に掲げた目標が、地元で行われる大分国体への出場だった。

「大分国体でソフトテニスの主力メンバーとして活躍することで、みんなの仲間に入りたかったんです。大阪生まれの私は、大分のみんなと方言も違うし、カルチャーも違うから、引っ越してきたこの土地になじむのが大変だったんですよね。赤ちゃんの頃からみんな知り合いという田舎の小学校に結局なじめないまま卒業を迎えてしまいました。中学では自分は猛烈に『テニスしたい』と思っているのに、周りは全国を目指す雰囲気ではなかったので、何となくギャップがあって。スポーツ推薦での進学にしても、高校から声をかけられたわけではなく、実は自分から売り込んだんですよ。だから実力的にもみんなより劣っているのは歴然です。高校ではミスをしたとき『弱小中学から来たくせに!』ってよく言われたし、悔しいこともたくさん経験しました。そうやって過ごしてきたので、ずっと故郷っていいなと思っていました。幼なじみがいたり、みんなで助け合ったりしている人たちがうらやましかったんです」

ホームタウンといえる場所が自分にはない――。そこにストレスを感じていたという中西は、大分国体に向かって無我夢中に突き進んだ。大学進学はあきらめ、高校卒業後は、アルバイト生活を経て建設会社に就職し、働きながら競技を続けていた。しかし、そのころ事故は起きる。勤務中、工事現場で鉄骨の下敷きとなり、右足の膝から下を切断。21歳だった。

脚を失ったことは「スポーツ障害でしかない」

「私にとって脚を失ったっていう事柄は、いわゆるスポーツ障害でしかないんです。たとえるなら肉離れ。ケガをしただけなんです。そもそも(事故後、運ばれた病院でどう処置するか問われて)テニスをしたいから切断を選択したくらいですし、手術後、貧血がおさまってからはすぐにラケットを持ちました。とにかく入院中もボールの感覚は忘れないようにしようと思って、テニスをリハビリにも取り入れてもらい、椅子に膝立ちしてボールを打っていました。2008年に国体で活躍するためには、その1年前にはレギュラーでいなければ難しいのが現実です。事故に遭ったのは2006年9月なので、残り1年である程度の競技レベルに戻さなければいけない。そのために今何をしたらいいかを逆算して考えていました」

驚くべきことに、テニスに復帰したのは、退院した当日だった。退院したその足で母校に行き、テニスをした。ソフトテニスで国体を目指すという目標は、彼女にとってそれほど大きなものだった。

だが、現実は甘くはなかった。当時はまだ義足が合わず、術後、十分に時間が経過していない切断面に痛みが走る。義足も思うように使いこなせず、うまく走れないどころか、ボールが返ってくる位置に一歩も足を出せない。必死にラケットを振るが、「自分が全く動かなくていいところにボールが返ってきたときは、もちろんちゃんと打てるんです。だけど、ちょっとでも動かされたら足がついていかずにダメでしたね」と中西は振り返る。

「最初はなんとか食らいついていこうと必死で練習に参加しました。でも、試合形式の練習になったとき、甘い場所に打ってしまったボールの返球が、明らかに私の打ちやすいところに返ってきたんです。いわば同情する気持ちで私をこのチームにおいてもらうっていうのは、ちょっと違うんじゃないのかなって感じるようになりました」

大分国体を目指すには、どうあがいても時間が足りなかった。「まずは走れるようにならなければ......」との思いで、義足のスポーツを探し、陸上を始めた。右も左もわからないなか、健常者に混ざって走っていると、パラ陸上の関係者に声をかけられた。「それだけ走れるんだから、障害者の中でやれば北京パラリンピックに間に合うかもしれないよ」。ただ、テニスをやめたわけではなかった。「ちょっと陸上の人たちとトレーニングをやってみようかなっていう感じでした」

義足のスプリンターとしてパラリンピックに初出場

それが転機になった。同時に、パラ陸上界にすい星のごとく現れた22歳の快進撃が始まった。2007年に出場した初めての日本選手権で100メートル、200メートル(いずれも女子T44クラス)日本新記録樹立。2008年北京パラリンピックでは2種目で決勝に進出する快挙を見せた。2008年はあの大分国体の年でもあった。中西は北京から帰国した翌月、国体と同じ競技場で開催された「全国障害者スポーツ大会」に陸上選手として出場。テニス選手として国体で優勝する夢はかなわなかったが、走り幅跳びと100メートルで優勝を成し遂げたのだった。

2008年北京パラリンピック 陸上女子200メートル(T44)決勝(ロイター/アフロ)

しかし、当の本人は心中穏やかではない。「日本新記録を出しても『競技人口の少ない女子はいいよね』と軽く言われるし、パラリンピックに出ても競技スポーツとして見てもらえていないような気がして。その時期は、やさぐれていましたね。自分としては、世界トップ5に入ったとしても『もっと世界のトップクラスで争えるような実力をつけよう』と取り組んでいましたし、事故に遭って短い期間で、高価な競技用義足を用意し、練習や試合に出るための資金も自分の貯金を切り崩してがむしゃらにやっていたのに......。周りの人の言葉に純粋に腹が立ちました」

振り返ると、北京パラリンピックのミックスゾーンでも「自分は始めたばかりで出場できたけど、簡単にパラリンピックに出られたとは思われたくないんです」と複雑な胸の内を語っていた。

日本記録保持者の知られざる葛藤

そんな中西は、輝かしい記録を樹立する一方でうまく義足を操れないもどかしさと闘っていた。反発する板バネの陸上競技用義足は使いこなすのが難しい。

「義足で飛ぶ感覚が全然つかめなくて、めちゃくちゃ苦労しました。ある義足の選手に『どういう感覚で皆さんジャンプしてるんですか?』って聞いたのですが、『地面から反発もらってジャンプしてみて』って。そう言われても、どうやってやるのかさっぱりわからない。期待した具体的な答えが返ってこないので、『初めてスパイクを買った小学生に教える感覚で、陸上の基礎を教えてください』っていろいろな人を訪ねました。でも、22歳で陸上を始めたばかりで、もちろんいいときばかりじゃないから、周囲の人とぶつかることもありました。『社会人になってこんなこともできないのか』『日本記録保持者のくせに』と言われたり......それが当時、すごくつらかったんです。『義足で飛ぶってこういう感覚で飛べばいいんだ』って思えるようになったのは、つい最近ですからね」

2014年ジャパンパラ陸上競技大会。この大会で2度日本記録を更新した

その後、2012年のロンドンパラリンピックを目指す過程で、中西はより高みを目指せる環境を求め、アメリカに渡った。アメリカで複数のスポンサーも見つかり、2009年から2012年まで彼女のコーチを務めたオリンピック三段跳びの金メダリスト、アル・ジョイナーとの出会いにも恵まれた。

ところが、メダルも期待されたロンドンパラリンピックでは、文字通りプレッシャーに押しつぶされ、結果は惨敗。中西にとって思い出すのも嫌な大会になってしまった。そのまま中西は引退を表明した。

「障害者である自分を守っていた」と気づき、大分から再び世界へ

2013年、春。カムバックの機会はすぐにやってきた。元コーチのジョイナー氏といつものようにスカイプで会話をしているときのことだ。「もう障害者スポーツなんてやりたくない」と言う中西に、ジョイナー氏はこう問いかけた。「じゃあなんで健常者とレースしないの? 日本ではそんな風土がないなら、なぜそれを変えようとしない? 同じくらいの記録の中学生に負けるのが嫌だからだろ?」。中西はハッと気づいたという。「自分の心の中に障害者である自分を守っている部分があるんだなって」

走り幅跳びを始めた当初に掲げた「6メートルを飛びたい」という目標はまだ達成していなかった。「テニスを再開しようと考えていたんですが、その前に、健常者のなかでどれだけできるか陸上で試してみよう。そのとき素直にそう思えたんです」

2013年の第13回全国障害者スポーツ大会 陸上女子走り幅跳びでは優勝(アフロスポーツ)

復帰の場は、大分県の健常者対象の記録会だった。「大分の人たちに応援してもらえるアスリートになりたい」――地元のうちのう整形外科、ネッツトヨタ東九州、大分朝日放送とスポンサー契約を締結するなど、地元での活動も精力的に行っている。

中西は言う。「私は、もっといい義足を作りたいと思ったら田舎から東京に出ていける。でも、行動派でない普通の女の子だったら、どうでしょう。『東京になんか遠くて行けないし、世間からのけ者にされている』と感じると思うんです。実際に、私も感じたことがあるので......ただ、私が大分のアスリートとして活動し、結果を残すことで『地方でもいいものができるんだ!』というプラスの思考になるといいなと思うんです」

挫折を味わいながらもはい上がり、大分から世界に羽ばたいた中西は、2年後に迫る東京パラリンピックを見据えている。

2016年リオパラリンピック 陸上女子走り幅跳び(T44)(アフロスポーツ)

「私が競技場に入ったとき、観客がウワーって盛り上がる。北京でも、ロンドンでも感じましたが、それをやっぱり東京でもできるようにしなくてはならないですよね。今はまだ競技場には家族や関係者が多いけど、東京大会の直前になってから『見に来てください』とお願いするんじゃなくて、見る側からアクションを起こしてくれるような大会にならないと。そうでなきゃ、日本でやる意味ないと思うんです。だから、選手としては、観客の皆さんが東京に向けて選手の名前を覚えるとか、大会までに『準備したいな』と思ってくれるパフォーマンスをしたいです。そして、2年後、競技場が満員になってくれたらいいですよね。東京パラリンピックでは、みなさんに6メートルの跳躍をお見せできたらと思っています」

(2018年5月 取材・文:瀬長あすか 撮影:花井智子)

<プロフィール>
中西麻耶(なかにし・まや)
1985年生まれ、大分県出身。うちのう整形外科所属。明豊高校時代はソフトテニスでインターハイに出場。卒業後、地元大分で開催される国体を目指している途中、勤務中の事故で右足の膝下を切断した。その翌年、2007年から義足で障害者スポーツの大会に出場するようになり一躍、日本のトップ選手に。パラリンピックには3度出場。走り幅跳び(T44)では5メートル51のアジア記録を保持し、リオパラリンピック4位。2017年に世界選手権で自身初めてとなるメダルを獲得した。


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