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2020年という、日本にとって特別な1年に向けて
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東京2020オリンピック・パラリンピック開催まで

2021.05.13

ボリビア・韓国・日本で培ったテコンドーで金メダルを目指すコスモポリタン、鈴木セルヒオの素顔

(写真:長田洋平 アフロスポーツ)

鈴木セルヒオは、テコンドーを介して日本とボリビア、そして韓国をつなぐコスモポリタンだ。父は日本人、母はボリビア出身のは、ボリビアでテコンドーを始め、高校時代はテコンドーの本場・韓国で過ごした。2018年にはアジア大会で銅メダルを獲得し、全日本選手権は現在3連覇中である。東京2020の男子-58kg級の代表に内定している鈴木セルヒオのキャリアを追いつつ、彼の素顔に迫る。

『燃えよドラゴン』に感化され、6歳でテコンドーの虜に

母・ノルマさんの妊娠が発覚したのは彼女が生まれ育ったボリビアだったが、産声を上げたのは父・健二さんの実家のある神奈川県だった。幼少時を日本で過ごしたセルヒオが、ボリビア第2の都市サンタクルスへ戻ったのは5歳の時だ。

「小さかったので、向こうの生活にはすぐ慣れました。最初は言葉(スペイン語)を喋れなかったけど。食事はお米もあるし、パンやジャガイモをよく食べていました。ボリビアにいた頃は日本食のほうが好きでしたね」

格闘技との出会いは、日本で空手を習っていた3歳上の兄ブルーノについて行く形で、現地の大きな総合スポーツクラブに足を運んだことがきっかけだった。スポーツクラブでは空手のほかにテコンドーやキックボクシングも習うことができ、ちょうどブルース・リー主演の映画『燃えよドラゴン』を見て感化され蹴りに興味を抱いていたセルヒオは、両親に言った。

「僕はテコンドーをやってみたい」

6歳になったばかりのセルヒオは、すぐにこのオリンピック・スポーツの虜になった。

「先生がすごく優しくて、友だちもいっぱいできました。テコンドーが楽しいというより、クラブに行けば友だちと遊べることが楽しかったのかもしれない。その頃から日常会話はスペイン語を使っていたと思います」

68kg級の弟・リカルド(右)とともに五輪代表に内定した(写真:長田洋平 アフロスポーツ)

テコンドーの超名門校に入学し、実力差を痛感した高校生時代

その後はとんとん拍子だった。中学生の時には早くもシニアのナショナル王者となった。両親から「韓国の高校でテコンドーをやってみたら?」と声をかけられると、セルヒオはさらにやる気になった。

「その頃はまだ韓国の練習がきついことも知らなくて(苦笑)。テコンドーの動画を見ると韓国人選手の強さが際立っていたのですが、それくらいの知識しかありませんでした」

実際にソウルにあるテコンドーの超名門ハンソン高校に入学すると、カルチャーショックの連続だった。ボリビアでは先生ともフランクにつき合っていたが、上下関係の厳しい韓国では目上の相手との接し方にも苦労した。

「ボリビアでは、目上の人が相手でもちょっと丁寧に話すくらい。敬語という概念があまりないんです。だから、韓国では本当によく怒られましたね......」

そんなセルヒオに対する周囲の反応は「変なヤツが来た」という嘲笑だった。数カ月は生活も練習も地獄の連続で、すぐにボリビアに戻りたくなった。両親からも「帰ってきてもいいよ」と促された。

「練習ではずっとボコボコにされていました。ボリビアでは大人に交じっても一番だったのである程度プライドもあったけど、韓国ではオモチャのように弄ばれていましたね。自分がいかにレベルの低いところでやっていたのかを痛感させられました」

果たして、ソウルの高校に通っていた頃のセルヒオのポジションはずっと控えだった。

「最終的にレベルは中の下くらいまでいったんじゃないかと思います。5段階でいうと、2.5くらい。平均よりちょっと悪いくらいですね」

最高位はソウル市の大会でベスト8、それほど規模が大きくない全国大会でベスト16止まりだった。セルヒオは「全国大会のトーナメントに出ると規模がすごかった」と振り返る。

「トーナメント表が1枚では収まり切らず、4枚くらいにわたってあるんです。それを見ただけで気が遠くなりそうだったけれど、決勝トーナメントのページはまた別にあったので、もっとビックリしたことがありましたね」

ただ、スケールが大きく、選手層が厚い本場の世界から逃避することはなかった。"足のボクシング"と形容されるこの競技を嫌いになることもなかった。韓国では、日々の練習や調子の移り変わりをノートにつけていた。

2018年アジア競技大会では3位を記録した(写真:森田直樹 アフロスポーツ)

日本で身に付けた「自分で考えるテコンドー」

高校卒業時には釜山の大学からのスカウトがあったが、日本の大学からも声がかかり、セルヒオは自らの意志で日本行きを選択する。日本での練習を見学して、何かピンと来たわけではない。「なんとなく新しいところに行ってやってみたい」という気持ちだった。

「子供の頃、日本で生活していた記憶はなかったので、東京での生活は楽しみでした」

実際に声をかけてくれた大東文化大に進学し、金井洋監督の指導を受けてみると、衝撃の連続だった。

「韓国のコーチより怖かったんですよ。オーラというか、一言一言が重いというか」

学ぶ意欲が高かったセルヒオは、ある日、金井監督に「どうすればいいですか?」と聞いたことがある。わからないことを先生に聞く。それは学生として、当然の権利だと思っていた。しかし、その時、金井監督は意外な一言を浴びせた。

「自分で考えろ」

セルヒオは、その一言が今でもとても記憶に残っているという。

「当時は『なぜ教えてくれないんだ』と思いましたよ。でも、自分で考えることもせずに技術的なことを『どうすればいいですか?』と聞いたんだと思う。あえてそういう指導をしてくれたのだと思うけれど、おかげで自分で考えられるようになりました」

金井監督が最も教えたかったこと。それは自分で考えるテコンドーだった。

「あの一言があったからこそ、正直、僕のテコンドーは伸びたんだと思います。それまでの僕は考えていなかったというか、頑張り方がわからなかったのでしょう。韓国では、その日の練習を乗り切るのに精一杯でイヤイヤやっていたところもありましたが、今は本当に続けていて良かったと思います」

金井監督の一言があったからこそ成長したという(写真:西村尚己 アフロスポーツ)

勝率を上げたのは、従来のセオリーを覆すファイトスタイル

2013年秋、大学1年のセルヒオは初めて出場した全日本学生選手権で優勝した。もともとバランス能力には優れていたが、金井監督の指導を通して自分で考えるようになったことが相乗効果となり、上段蹴りのタイミングなどが飛躍的に向上した。

大学3年でシニアの全日本選手権で初優勝すると、その勢いで2年後には初出場となる世界選手権でもベスト16まで勝ち上がった。

「世界でも、結構やれる」

セルヒオは最も大きな舞台でも自分が活躍できる感触を掴んだ。

スポーツの世界では「攻撃は最大の防御」という言葉がよく使われる。しかし、この頃のセルヒオのファイトスタイルは「防御こそ最大の攻撃」という、従来のセオリーとは相反するものだった。

「後にルールも変わったので、やり方は変わったけれど、そういうモットーにしてから勝率は上がったと思います。相手の攻撃をもらわない。あるいはさばいて、チャンスがあればしっかり攻撃する。あとは点を取りにいこうというより、『取れればいいや』くらいに気楽に考えるように心がけています」

とはいえ、現行のルールでは、防御優先だとどうしても後手に回ってしまいがち。さすがにそれだと勝てないので、どんな状態でも蹴りあえるスキルも同時に磨いている。

昨年1月には、東京五輪日本代表最終選考会で弟・鈴木リカルドとともに優勝して男子-58kg級の東京オリンピック代表選手に内定した。将来は日本とボリビアの架け橋になろうとしているセルヒオの、コスモポリタンの旅は続く。

画像制作:Yahoo!ニュース

文=布施鋼治


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